京都発酵研究所

2016年06月07日

09古楽と発酵

GustavLeonhardt

古楽演奏の巨匠 レオンハルトは かっこいい!!

バロック時代の家具に囲まれて暮らし

最新のアルファロメオを乗りこなし駆け抜ける

 

・・

 

電子機器を家に置くことを嫌ったが

車は最新のアルファロメオ。

オランダまで、古いオルガンを、見に行く時、

高速道路を爆音で、駆け抜けていったそうだ。

 

 

アルファロメオをブッ飛ばしていた時でさえ

彼はカーナビではなく、星によって帰り道を見つけた。

 

 

かっこいい。

 

 

最新と古典。

この対局にあるような二つを

最上質で保持してる人間にしか、

恋できない。

 

 

最新を追いかけてるだけは、

浅はかにみえる。

 

古典を追求するだけでは

古臭く感じる。

 

最上質を、知るには

お金やエネルギーがたくさん必要だ

 

その、最新と古典の、両極端の先を

しなやかに曲げて繋げると

ぐるぐると円をえがくようにまわりはじめる

 

 

バッハのチェンバロ演奏は、昇天するように興奮する。

 

 

情熱とは?

激しさとは?

 

千利休のように、たぎる心を

魂の中に、持っていることだ。

けっして 表面に 表していることでない。

言葉として発することでもない。

そして「情熱」と「感情的 激しさ」は異なる。

 

 

わたしは、若いころ 感情的で激しかった。

その自分の姿を、とても恥ずかしく、かっこ悪いと感じていた

しかし、どうしても、自分の力では抑制ができなかった、

教育環境に、その問題があった。

両親も、師匠も、感情的だった。

35歳のとき、そこから離れることになった。

引き裂かれるよう、すごく寂しかった。心は大ケガ。輸血が必要だった。

その時の、輸血は、血でなく、食塩水のようで

過去の自分を薄めてくれた。

 

 

運がよかった。

 

 

 

もし、激しい感情を自分で止められないならば

ぜひとも、天才で奇人が演奏する、クラッシック音楽

特にバッハを聴いてみてほしい。

 

私への薬は、バッハだった。

自分で自分に処方していた。

 

自分の激しさよりも、

天才演奏家は、もっと激しく、強く、持続性があった。

自分の小ささ、たいしたことなさに、

自分を笑えた。

自分なんて、可愛いもんだと。

これくらいの感情くらいでどうするんだと

もっと、激しく どうしょうもない人間がいることを知ると

友に出会えたように、こころは、鎮静していく。

 

そして、バッハは、友人になり、かけがえのない家族となった。

1日に20時間ともにした。

リピートで寝てる間も聴いた。

それでも足りなかった。

音から離れると、そわそわした。

 

バッハの演奏は、大きく2つに分かれる。

 

古楽器か、現代楽器かだ。

 

 

消費社会の中で、バリバリ仕事をしていると

現代楽器の演奏が、こころに響く。

例えば、シェリングの演奏だ。

 

 

しかし、面白いのだが

消費社会から離れ、

みえない微生物とくらし

発酵生活をおくるようになると

クイケン(古楽器)の演奏に、手が伸びるようになった。

 

 

みえない微生物や

植物のまわりにいる妖精たちと

気持ちよく暮らすこと。

 

 

音楽は、処方薬。

 

 

 

その処方薬を作れるのは

品性と知性を併せ持った、

静かで情熱的な生物である。

 

 

グスタフ・レオンハルト(Gustav Leonhardt )

1928年5月30日 – 2012年1月16日

オランダ鍵盤楽器奏者・指揮者教育者・音楽学者。ピリオド楽器による古楽演奏運動のパイオニアにして中心人物であった[1]。各種の鍵盤楽器によって録音を残しているが、とりわけチェンバロ奏者・オルガン奏者として名高い。現在の主要なチェンバロ奏者の多くはレオンハルトの弟子または孫弟子である。

オランダ北部のス・フラーフェラント(‘s-Graveland)でプロテスタントの家庭に生まれた。両親はともに室内楽を演奏し、実業家である父は地元のバッハ協会に所属していた。第二次世界大戦中は家族にとって困難な時代で、電気も水もなく食料もわずかだった[1]1947年から1950年までバーゼル・スコラ・カントルムにてチェンバロをエドゥアルト・ミュラー(Eduard Müller)に師事。1950年ウィーンにおいてバッハの「フーガの技法」を演奏してチェンバロ奏者としてデビュー。同地でハンス・スワロフスキーに指揮法を学ぶ[2]1952年から1955年までウィーン音楽アカデミーにて、また1954年よりアムステルダム音楽院にてチェンバロ教授に就任。教会オルガニストも兼務している。

残した録音は膨大で、1950年代初頭にバッハのゴルトベルク変奏曲フーガの技法を録音[3]1954年にレオンハルト・バロック・アンサンブルを率いて、イギリスカウンターテノールアルフレッド・デラーと共演し、バッハのカンタータ2曲の先駆的な録音を行った。このアンサンブルには夫人のマリー・レオンハルトと、ニコラウス・アーノンクールチェロ)が参加している。

レオンハルトはバロックから古典派に至るさまざまな楽曲を演奏・録音してきたが、1971年から1990年まで20年がかりでアーノンクールと分担で録音した、バッハのカンタータ全集がとりわけ有名である。

チェンバロ奏者としては、バッハの作品のほかに、フランス・クラヴサン楽派やフレスコバルディの作品の録音でも知られている。

1980年エラスムス賞を受賞。

2012年1月16日、アムステルダムで死去[3]。83歳没。前月の12月12日、パリ ブッフ・デュ・ノール劇場(fr:Théâtre des Bouffes du Nord)での演奏後に、病気を理由として公開演奏からの引退を発表していた。

 

出典:http://gnoeagrai.lionra.cher-ish.net/gustav-leonhardt

 

チェンバロ演奏者で古楽運動の父、グスタフ・レオンハルトは1月16日に83歳で亡くなった
グスタフ・レオンハルトの音楽は、ほかの誰とも違った。彼は、その長く繊細な腕を軽く曲げて、葬儀屋の雰囲気でチェンバロに向かった。彼が演奏した時、彼は、肘を脇につけて、パリッとした完全なスーツを着て、笑わずに、背筋を伸ばして痩せたワシのように座った。不必要な動作はせず、感情の兆しを見せない。Senza Baldanza,作曲家はそうあらわしたに違いない。彼は使命を持った男のようには見えなかった。しかし彼はそれを持っていた。
レオンハルト氏のライフワークは、どれほどチェンバロが美しく、いかにしてチェンバロのレパートリーが演奏されるべきかを世界に説得することだった。オランダのグレーヴランドにある彼の家に彼の両親が買ったかなり悪い楽器の形で、彼が最初にそれと恋に落ちた時、彼はそれを鍵盤の王者だと認識した。オルガンは気品のある特徴を持っており、彼は教会のオルガンを何年間も演奏した。ヴァージナルは楽しかった。彼はフラマンの手本について本を書いた。しかし、フォルテピアノはひどかった。鍵盤をたたく場所どこでも音は弱くなり、そのために彼は愛したモーツァルトを演奏するのを見送った。そして現代のグランドピアノは大変不快だった。チェンバロほど絃を直接に引っ張ったものはなかった。その仕組みは非常に厄介で、「不愉快」ですらあり、それが彼が演奏するときに笑わない理由だ。
それはまた、粗野でもあった。レオンハルト氏は、それが電灯に照らされていようと、目立った調音だろうと、ホテルの朝食のビュッフェだろうと、そしてベートーヴェンの9番であろうとそれを見続けた。彼の演奏法は非常に礼儀正しかった。彼は過去からやってきたように見え、アルファロメオをブッ飛ばしていた時でさえ、彼はカーナビではなく星によって帰り道を見つけた。
彼が1950年にバーゼルでチェンバロを真剣に勉強し始めた時、その楽器は何十年もの間無視されるかロマン派の甘さに覆い隠されていた。彼は、それをヨハン・セバスチャン・バッハが書いた時のように「甘いよりもむしろ塩辛い」単純なもともとの音に戻そうとした。その音が現代の演奏会場にはあまりに弱く、音の高さが気がかりなほど低いと感じたら、彼らの耳はただそれに慣れなければならないだろう。そしてしばらくたつと、彼らはそうした。
それは彼にとって大変な仕事を意味した。彼が指揮を勉強しようとした時(彼はそれを間違った注記を気にする必要のない音楽を見つける「もっとも簡単な方法」だと考え、指揮を軽蔑していたが)、彼はウィーン図書館でたくさんの楽譜の原版を絶え間なく書写し始めた。彼は、1953年にバッハの「フーガの芸術」の決定的な録音を行い、それがアンサンブルのためというよりもむしろチェンバロソロのために書かれたという熱のこもった議論を出版した。彼の小さな合唱団がBiberの未発表の「Fidicinium sacro-profonum」やほかの彼が発掘した宝物を演奏した時には、依然として不十分だったが、それはロマン派以前の音楽への関心を掻き立てた。彼はそれらを彼のカタコンベの日々だと考えた。しかしながら、かなり早く、聴衆はバードやフレスコバルディ、ラモーやリッターに熱中した。彼自身の録音、特にニコラウス・アーノンクールとのオール・バッハ・カンタータは、炎をあおり、古楽運動がかつてないほどに花開いた。
・・
初めて、古楽に触れる方へ
ラジオで幸せな時間をいただけます
夜明けと共に「古楽の楽しみ」
http://www4.nhk.or.jp/kogaku/

 

 

 

 

 


2016年05月14日

08はじめての発酵茶

世界遺産の龍安寺の傍にある閑居には

茶の木さまが、棲んでいらっしゃいます

 

閑居を訪れる人間のほどんとは、

その存在にきづかれません。

 

庭の友達は、ときおり、話しかけてきます。

人間が、だれもいない

きらきらと輝く朝露の時間に。

 

茶の木さまは、

私に、プラチナ色の若葉を見せてくれました。

いままでで、一番きれいなプラチナ色でした。

 

お江戸から戻ってきた翌朝、

若葉のまわりを飛び回ってる妖精たちが

一緒につくろうよ。手伝うからさ。と、話しかけてきました。

 

ずっと、空想の中にあった香りがあるんだけど、

一緒に作ってくれる?

 

中国武夷岩茶の香りを

茶葉を発酵させて表現したかったのです。

 

作り方を教えてくれる人はいません。

でも、大丈夫。

いつもそうだから。

 

だれかに教わるのでなく

イメージを明確にして、

よく観察し

変化を感じ取りながら、

表現していく。

 

よくみて、繊細に香って。

 

だれも教えてくれないからこそ

固定観念をはずして、感覚を研ぎ澄ますことができます。

 

 

素晴らしい、中国茶の香りが

茶葉から漂いってきました

お茶を作ってる間、ずっと、素敵な香りに包まれるのです。

 

なんて贅沢な時間なのでしょう

 

出来上がった茶葉を

聞香杯で聴いてみました。

 

なんて素晴らしいうっとりする香りなんでしょう

煎茶や玉露をつくっている

日本の茶の木と、同じとは思えません。

 

微生物との協業によって、誕生した香り

とても幸せな時間です。

 

だれも見向きしなかった

茶の木は、宝物となりました。

 

わたしが、ここにやってくるまで、

庭師さんは、普通の木の、剪定と同じように

茶の木を、角刈りヘアにしてありました。

庭師さんにお願いしました。

茶の木だけは、わたしに任せていただけませんかと。

そして、数年かけてすこしづつ、自然な姿になってきました。

 

五月末、宇治和束の茶畑で

中国茶の香りを表現します。

 

はじめての中国茶つくりは

ショパンのノクターン

ルービンシュタインの演奏で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2016年05月13日

07薔薇酵素

薔薇の妖精たちは

朝露シャンパンでパーティを楽しんでいました

 

お江戸からお呼びがかかり

 

儚い一瞬の 薔薇の香りを

採取するタイミングを

逃してしまわないかと心配していました

フラスコに生けた薔薇たちも

わたしの帰りを待ってくれていました

 

なんて贅沢なのでしょう

 

ハイグレードなホテルを定宿にしても・・・

ゴージャスな食事をしても・・・

得れない幸せ

 

 

自分の家族として

美しい薔薇がいる

 

 

香りは、深呼吸していただき

美しい姿は、心の潤いとしていただき

花びらは、発酵させて「薔薇酵素」に

 

 

薔薇酵素は

一年の時を経ても 変わらず芳香を保ち続ける

「生きた香り」

 

サティのジムノペディと。